Idioms A – 日本語
A camel to go through the eye of a needle (Mark 10:25)
1.針の穴を通るらくだ(マルコ10:25)
挿絵:狭い門を通るらくだ
聖書の言葉:「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」
(マルコ10章25節)
由来と応用:
文字通り、らくだが針の穴を通ることは不可能である。金持ちの男がイエスに、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいかと尋ねた。イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。、「わたしに従うために、持っているもの全てを売り払いなさい。」と言われた。その人は悲しみながら立ち去った。イエスは弟子たちに言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、らくだが針の穴を通るのと同じくらい難しい。」
しかし、これは単に、財産のある者でさえ神の国に入れない、という意味であろうか?
お金そのものは問題ではない。金持ちの男に問題を投げかけているのは、神ではなく、お金に対する愛(執着)なのである。
A hair’s breadth (Judges 20:16)
2.髪の毛の幅 (士師記 20:16)
挿絵:髪の毛
聖書の言葉:700人のえり抜きの兵士からなるこの部隊の皆が左利きで、髪の毛一筋をねらって石を投げてもその的をはずすことがなかった。(士師記 20章16節)
意味: 非常に小さい場所または短い距離
由来と応用:この言葉は、ベニヤミンという町で、あるイスラエル人の側女が辱められた事件の後に、全イスラエルの部族が結束してベニヤミン族と戦った“一人の人のように立ち上がる”という話から来ている。イスラエルの諸部族はベニヤミン族に犯人を引き渡すよう要求したが、耳を貸さなかった。直ちに、ベニヤミンの人々は2万6千人の兵士を動員、その中(他?)には、住民からえり抜きの兵士7百人もあった。彼らはとても老練で、髪の毛一筋をねらって石を投げても、その的をはずすことはなかった。
髪の毛一筋とは、非常に小さい場所または短い距離を意味する。
通常、誰かが的をほんの少しはずした時、又は僅差で競争に負けた時、
「髪の毛一筋の差で逃した」と言う。
例: ギャングは警察の手から、髪の毛一筋の差で逃げ切った。
A happy heart is the best medicine (Proverbs 17:22)
3.喜びを抱く心は最高の薬。(箴言17:22)
挿絵:賛美の歌をうたう
聖書の言葉:
「喜びを抱く心はからだを養うが、霊が沈みこんでいると骨まで枯れる。」
(箴言17章22節)
意味:喜びは健康に通ずる。
由来と応用:医学研究ではしばしば、陽気な心は、患者の、特にがん患者の回復を速めるという結果が示されてきた。この言葉は聖書を読む者にとっては新しいことではない。なぜなら、箴言の中で、いつもそう言われてきたからである。「喜びを抱く心はからだを養うが、霊が沈みこんでいると骨まで枯れる。」
この一節は、患者ケアの文献においてよく用いられる。病院牧師としての私の業務のなかで、患者さんたちが、人生の最も沈んだ時期にこの一節を読むことによって、しばしば大いなる慰めと励ましを見出すのである。
A little bird told me (Ecclesiastes 10:20)
4.翼あるものがその言葉を告げる (伝道の書10:20)
挿絵:鳥
聖書の一節:
由来と応用:後年のソロモン王によって書かれた「伝道の書」の中のこの言葉は
わたしたちに、自身の発する言葉に気をつけるよう、気づかせてくれる。
なぜならわたしたちの言葉が、思いもかけず、相手の耳に入ることもあるのだから。
「A Little Bird Told Me」は歌の名前でもある。ハ-ヴィ・O・ブルックスによって書かれ1947年に出版されたこの歌は、Head&Shoulders社の英国での広告にも用いられた。
例:ジェーン「私が妊娠してるってどうして知ったの?」
ティナ 「風の便りに聞いたのよ」
A prophet is not respected in his own country (Matthew 13:54-57)
5.預言者は、その人自身の故郷では敬われない。(マタイ13:54-57)
挿絵:イエスはナザレでは敬われない。
聖書の一節:「姉妹たちは皆、我々と一緒に住んでいるではないか。この人はこんなことをすべて、いったいどこから得たのだろう。」このように人々はイエスにつまずいた。
イエスは、「預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけある。」と言われた。
イエスが、故郷のナザレにお帰りになると、人々はイエスの知恵と奇跡を行う力に驚嘆した。ある人は、ナザレでの子供時代、大工の息子であったイエスの能力を疑い始めた。人々が不信仰だったので、そこではあまり奇跡をなさらなかった。
教会によっては今日にも、この言葉が実践されている。卒業したばかりの聖職者は、自分とともに育った人々のいる所属(出身)教会に、すぐには帰らないことを選ぶ。
A soft answer turns away wrath (Proverbs 15:1)
柔らかな応答は憤りを静める。(箴言15:1)
聖書の一節:「柔らかな応答は憤りを静め、傷つける言葉は怒りをあおる。」
(箴言15章1節)
由来と応用:言葉は人の心を癒すことも、傷つけることもできる。柔らかな応答は
状況を解決に向かわせるが、きつい言葉は人を怒らせる。似たような表現は他の文化にも見受けられる。イソップ物語を覚えているだろうか?北風は人のコートを脱がせることができなかったが、暖かい太陽はそれができたのだ。
例:柔らかな応答は憤りを静める、というちょっとした助言。
-英国タイム誌、2007年1月20日
A still small voice (1 Kings 19:12)
7.静かにささやく声(列王記上19:12)
挿絵:エリヤ
聖書の一節:地震の後に火が起こった。しかし、火の中にも主はおられなかった。火の後に、静かにささやく声が聞こえた。(列王記上19章12節)
由来と応用:エリヤは神に対して大変な情熱を傾けてきた預言者であった。ひたむきであってもなお、感情的な挫折に悩んでいた。イスラエルの女王、ジェゼベルに迫害されていたとき、エリヤはそこにあった洞穴に入る、夜を過ごした。主はエリヤを見つけ、「そこを出て、山の中で主の前に立ちなさい。」と言われた。そこで彼は立った。すると非常に激しい風が起こり、山を裂き、岩を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風の後に地震が起こった。しかし、地震の中にも、主はおられなかった。地震の後に火が起こった。しかし、火の中にも主はおられなかった。火の後に、静かにささやく声が聞こえた。「エリヤよ、ここで何をしているのか。」
上記の話から、私たちが主の導きを求めている時はいつでも、主は、私たちが考えるような雷や何か大きなものに現れるわけではない。むしろ、主は、私たちが沈黙の時を過ごしている時に、静かで小さな声のささやきによって導かれる。
Absent in body, but present in spirit (1 Corinthians 5:3)
8.体では離れていても霊ではそこにいる。(コリント1 5:3)
挿絵:パウロの手紙を読んでいるキリスト教徒
聖書の一節:わたしは体では離れていても霊ではそこにいて、現に居合わせた者のように、そんなことをした者を既に裁いてしまっています。(コリントの信徒への手紙1 5章3節)
由来と応用:
ギリシャの主要都市コリントの教会へ宛てた手紙の中で、使徒パウロは、自分の継母をわがものとするような、みだらな行いをした信徒を非難していた。
手紙は、パウロが、コリントのちょうど向かいにあるエフェソに滞在していた時に書かれたもので、手紙の中でパウロは、体では離れていても、霊では教会とともにいる。と言った。
この、「体では離れていても、霊ではそこにいる」から、「体ではそこにいても、霊では離れている」という表現も生まれた。教師たちは、あとの表現を用いて、クラスには出席しているのに気が散っている生徒のことを言い表すのを好む。
Adam’s Apple (Genesis 3:6)
9.アダムのりんご(創世記3:6)
挿絵:りんご
意味:「アダムのりんご」は、のどの皮膚の内側で飛び出しているのど仏を表している。
伝説によると、アダムが、禁じられた果物の最初の一口を食べた後に、のどを詰まらせたと言われている。
由来と応用:
りんごは、創造の物語の中の禁断の果実と結びついている。聖書では、その果実がりんごであると特に明記されているわけではないのだが。その禁断の果実は、中世後期より多くの絵画や文学の中でりんごとして描かれてきた。John Milton著書の「Paradise Lost」の中で、「我々の知っている善と悪がこの世界の中で、ほとんど不可分に相共に成長する…
味わった一つのりんごの皮から、善と悪の知識が、まるでくっつきあっている双子のように、この世界に飛び出した。」しかしながら、聖書によると、この果実の種類はあきらかにされていない。
After one’s own heart (1 Samuel 13:14)
10.御心に適う(サムエル記上13:14)
挿絵:サムエルに聖油で清められるダビデ
聖書の一節:主は御心に適う人を求めて、その人をご自分の民の指導者として立てられる。
(サムエル記上13章14節)
意味:あなたの心に適う人は、あなたと同じように考える。
由来と応用:サウル王はイスラエルの王となった時わずか30歳であった。サウルは、主に選ばれた預言者サムエルによって油を注がれたが、必ずしも主のお命じになったことを守らないことがあり、むしろ時によって自分自身の判断において行動しようとした。
これを見て、サムエルはサウルを非難し言った。「主は御心に適う誰かほかの人を選ばれて、その人をイスラエルの指導者とした。」その人がイスラエル史の中でも有名なダビデ王であった。
All things to all men (1 Corinthians 9:22)
11.すべての人に対してすべてのものになる(コリント1 9:22)
聖書の言葉:「すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。」
意味:パウロは、熱心な宣教者であり、その福音宣教の足跡はアジアやヨーロッパ中に見られる。パウロは、福音をつたえるとき、自分自身が異なる文化の人々に合わせるようにした。彼は、後には、彼らの友情を得、のちにはその魂の救いを得るために、異なる聴衆の前では、異なったふるまいをした。
あなたがすべての人に対してすべてのものになれば、すべての人を喜ばせることができる―これは偽善的な要素をも暗示している。実際にこれを達成するのは難しい。そこで、この表現は否定的に使われることの方が多い:すべての人に対してすべてのものになることはできない。
Alpha and Omega (Revelation 1:8)
12.アルファとオメガ(ヨハネの黙示録1:8
聖書の一節: 今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである。」
意味: ある事のアルファとオメガとは、その始まりと終わりを示している。
由来と応用:アルファとオメガはギリシャ語である。アルファはギリシャ語アルファベットの最初の文字であり、オメガは最後の文字である。アルファとオメガを合わせて、すべて込みの、すべてを含む範囲を意味する。 神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである。」
例: 学生運動のアルファとオメガ。
Amen (Numbers 5:22)
13.アーメン(民数記 5:22)
意味: まさしく、そうありますように。
由来と応用: 祈りの最後にこの言葉を聞くが、いったいどういう意味なのだろうか?
祈りの中で、わたしたちが主に対して自分の願いを言う時、「アーメン」の言葉で祈りを終える。これは、「まさしく、そうありますように」という意味のヘブライ語の起源をもつ「A―M-N」から派生している。祈りをアーメンで終えることでわたしたちは、主への祈りが応えられると信じるのである。
An eye for an eye, a tooth for a tooth (Exodus 21:24-25, Matthew 5:38)
14.目には目を、歯には歯を(出エジプト記21:24-25、マタイ5:38)
聖書の一節: 「目には目を、歯には歯を。」しかしわたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」
(マタイ5章38節)
由来と応用:
文字どおりの意味は、表面上は明らかである。ある人が罪を犯したなら、その罪と同じように罰せられなければならない、というのである。もしある人が、他の人の命を奪ったなら、その殺した本人は、自分の命を差し出さなければならない。この罰は、最初に、旧約聖書中の出エジプト記において伝えられた。主がモーセに言いあらわした戒律である。「もし、その他の損傷があるのならば、命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足、やけどにはやけど、生傷には生傷、打ち傷には打ち傷をもって償わねばならない。」
同じ言い回しが再び、新約聖書に現れる。が、焦点は別のところに置かれている。目には目で返す代わりに、イエスはわたしたちに、敵を愛するようもとめた。「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」
この二つの教えの違いが、旧約聖書の時代から、新約聖書の時代への移り変わりを表している。新約の時代には、愛が律法や戒律に勝るのである。主は、旧約の時代の後に、人間と新しい契約を結んだ。旧約時代の預言者エレミアは書いている。この新しい時代に、主は、ご自分の律法を人びとの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す、また彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない、と。(エレミヤ31:33-34)
Apple of one’s eye (Deuteronomy 32:10)
15.ある人のひとみのように(申命記32:10)
挿絵:りんご
聖書の言葉:主は荒れ野で彼を見いだし、獣のほえる不毛の地でこれを見つけ
これを囲い、いたわり、御自分のひとみのように守られた。(申命記32章10節)
意味: ある人にとって大事なもの、大好きなもの。
由来と応用: なぜ私たちのひとみと、りんごのイメージが結びつくのか不思議に思われるかもしれない。ひとみの中のりんごとは、瞳孔を意味している。昔、瞳孔がりんごと同じように堅いと考えられてきたからである。旧約聖書の中に5回も出現するこの表現は、ある人の大事なものを指している。
一般に、この言葉ははじめ聖書に出てきたと考えられている。しかし歴史学者によると、この言葉は、早ければ9世紀に、アルフレッド王が、「瞳孔」を意味するもともとのラテン語の語句「Pupillam」を、古期英語に訳した時に既に登場している。りんごのイメージが、誌的に聞こえるように加えられた。「ある人のひとみのりんご」は、今では、ある人のひとみと同じくらい大切と思われるものを指し示すようになった。
例:アリスは大変有能な生徒で、教師たちのひとみのりんごである。
Arise as one man (Judges 20:8)
16.一人の人のように立ち上がる(士師記20:8)
聖書の一節:「すべての民は一人の人のように立ち上がり、こう言った。「我々はだれも自分の天幕に帰らず、だれも家に戻らない。」(士師記20章8節)
意味: 一人の人のように立ち上がるとは、すべての人を同じ動機で団結させることである。
由来と応用: これは旧約聖書中に出てくる凶暴な強姦の場面の話である。その話を調べて、この言い回しがどこで使われているか確かめなさい。
レビ人の男が、一人の女を側女として迎え入れたが、その側女は主人のもとを去ってベツレヘムの父の家に帰った。男は彼女の後を追って父の家へ行き、その心の話しかけて連れ戻そうとした。彼らが家に帰る旅の途中、ひとりの老人が彼らを自分の家に泊めた。その夜、町のならず者が家を囲んで、レビ人の男を知りたい、と言った。老人は、彼に対してそのような非道なふるまいをしないように説得し、代わりに、男の側女と、老人自身の娘とを家の外に連れ出した。彼らは側女を知り、一晩中もてあそんだ。朝になるころ、女は主人のいる家の入口までたどりつき、明るくなるまでそこに倒れていた。
自分の側目が、倒れたまま呼びかけに応えないのを見て、彼女の主人は彼女をろばに乗せ、自分の郷里に戻った。家に着くと、彼は彼女の遺体を12の部分に切り離し、イスラエルの全土に送りつけた。イスラエルの全部族が皆集まると、レビ人に、このような非道な犯行がどうして行われたのか、聞いた。レビ人の話を聞いて、彼らは皆、一人の人のように
立ち上がり、ベニヤミン族と戦うことを決断した。犯行がベニヤミンの町で行われたからである。
Armageddon (Revelation 16:16)
17.ハルマゲドン(ヨハネの黙示録16:16)
挿絵: イスラエル、メギド
聖書の一節: 「そして彼らは、ヘブライ語で「ハルマゲドン」と呼ばれる所に
王たちを集めた。」(ヨハネの黙示録16章16節)
意味: ハルマゲドンとは、最後の大決戦の、完全な破壊のことを比ゆ的に表すのに用いられる。
由来と応用: ハルマゲドンはキリストと反キリストトの最後の大決戦場となる場所であり、キリストが勝利をおさめる。ある信者たちは、ハルマゲドンはイスラエルのメギド山のことだと考えている。この戦いは、突然で、予期せぬことなので、信者たちはいつも戦いに備えていなければならない。
「ハルマゲドン」(1998)は、ブルース・ウィリス主演のアカデミー賞候補作品のSF映画のタイトルでもある。小惑星の軌道が、そのままいくと地球と衝突してしまうためにその軌道をそらす、という命を受けNASAから派遣されたの地中掘削グループの話である。
As white as snow (Isaiah 1:18)
18.雪のように白い(イザヤ書1:18)
挿絵:不正から清められる
聖書の一節: 「論じあおうではないか、と主は言われる。たとえ、お前たちの罪が緋のようでも、雪のように白くなることができる。たとえ、紅のようであっても、羊の毛のようになることができる。(イザヤ書1章18節)
「ヒソプの枝でわたしの罪を払ってください。わたしが清くなるように。わたしを洗ってください。雪よりも白くなるように。」(詩編51章9節)
意味: ある物またはある人が雪のように白いという場合、それらは完ぺきであるか、
全く堕落しておらず正直である。
由来と応用: 白は純粋さと同義である。聖書においては、原罪からの出発を象徴した色である。かつて、人びとは主と和解し、かれらの罪は赦され、雪のように白くなった。
Ashes to ashes, dust to dust (Genesis 2:7, 3:19)
19.土は土に、塵は塵に(創世記2:7,3:19)
聖書の一節: 「お前は顔に汗を流してパンを得る。土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る。」(創世記3章19節)
由来と応用:1548年に完成された共通祈祷文の最初の英語の本の、埋葬の章に「土は土に、灰は灰に、塵は塵に。」とある。この語句は聖書からの直接の引用ではないが、聖書に由来している。
葬儀の中で埋葬が行われる時、からだは地面に埋められる。聖書によると、そこがわたしたちが来たところだから。主はアダムを土からおつくりになった。アダムとエバが、主に禁じられていた善悪の知識の木から果実をとって食べた時、主はかれらをエデンの園から追放された。その時から、ひとは、園の木の果実を自由に食べることはできなくなり、代わりに、食べ物を得るために苦労して働かなければならない。主はアダムにこう言われた。「お前は顔に汗を流してパンを得る。土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る。」(創世記3章19節)
At their wit’s end (Psalms 107:27)
20.どのような知恵も呑み込まれてしまった(詩編107:27)
聖書の一節: 彼らは、酔った人のようによろめき、揺らぎ、どのような知恵も呑み込まれてしまった。(詩編107章27節)
意味:知識の限界に達する。
由来と応用: この詩編は感謝の祈りである。作者は、イスラエルの神であるだけでなく、全世界と全人類の神である主に感謝を捧げている。27節で、作者は、主によって嵐の海から救い出された人びとに、主に感謝と栄光の祈りを捧げるよう、よびかけた。
ここでは、船中のすべての者がうろたえていた。彼らのどのような知恵も呑み込まれてしまった、というのは、彼らが万策尽きはて、知識の限界まで達し、次にどうして良いかわからなくなる、という意味である。 例: あれほど多くの試行錯誤の末に、わたしは万策尽き果てた。